12日本とザクロ
13日本のザクロ伝説
●古代ギリシャ、エジプト、ペルシャの妙薬ザクロ
「プリニウスは古代ローマにおいて傑 出した著述家、博物学者、自然学者、法律家、雄弁家で あり、さらには将軍・官吏であった人です。その彼が自然 の営みを克明に記したのが百科全書 的膨大な著作『博物誌』です。この『博物誌』には、ザクロについて実に多く の記述が見られます。 表的なものを挙げてみましょう。 @寄生虫駆除‥‥ザクロ種子をコリアンダーの種子と一緒にオリーブ油に入れて飲む。 A下痢止め‥‥‥焼いたザクロの実をすりつぶして飲み、健胃剤としても利用していた。 Bザクロの汁をハッカと混ぜて飲んで嘔吐やしゃっくりを止めていた。 Cザクロの皮をアーモンド油と煎じて、耳の中の虫を退治したり、難聴、耳鳴り、化膿な どの耳の 病気に効能を発 揮した。これは頭痛や眼の痛みも消失させた。
プリニウスと同じ頃、やはり同じローマ帝国にはもう一人の博識家がいました。‥‥ 彼は 哲学者でもあるのですが、軍医としても、ネロ帝とウェスパシアーヌ帝に仕えました。 その間、各地を旅行して得たという植物学の広い知識を『薬物誌」という大著にまとめました。
@ザクロはロアと呼ばれ、どの種のザクロも美味で胃によい。 A特に甘味の強いものはよい。酸っぱいものは胸やけに効き、収斂作用や利尿作用があり、 ブドウ酒に似たものは甘いものと酸っぱいものの中間である。 B酸っぱい品種はその種子を日光で乾燥させてから肉に振りかけて一緒に煮れば、下痢止め や胃液の分泌調節によく、また雨水でふやかしたものを飲めば吐血に効き、坐浴で用いれば 血性下痢や分娩時の帯下によい。 C種子をすりつぶした汁は煮てからハチミツと混ぜ、口腔や生殖器、肛門にできた潰瘍に、 また爪の翼状片、浸食性悪性潰瘍、耳の痛み、鼻孔の疾患によい。 Dその煎じ汁は出血性の傷を癒着させ、弱い歯茎やクグラグラする歯に有効なので洗口剤によい。 パップ剤として用いれば、骨折した骨も癒着させる。 E大きめの花を三つ飲み込むことができた者はその年はどんな眼の病気にもかからない。 Fシデイア(ザクロの樹皮のことを特にこう呼んでいた)は、収斂作用を持っており、条虫 (さなだ虫)駆除によい。また、この時代にはザクロ酒を好んで愛飲したようで、 その作り方が書かれています。」
「『アーユルヴェーダ』は三つの古典からなっており、西北インドを代表とする『チャラカ・ サンヒター』(6世紀頃)、インド中東部を代表している『スシュル・サンヒター』 (紀元前数世紀か、後世の改編ありとされている)、そしてこの二つを体系的に抜粋した 『アシュターンガ・サンヒター』(7世紀)です。‥‥ この中では、ザクロについては次 のような記述があります。 @ザクロはすべての人にとって保健に適した食品で、消化を助け、食欲を増し、 精神を さわやかにする食品である。 A利尿作用を持っている。 Bレモン汁に漬けて丸薬としたものを毎朝一粒服用すれば、咳、呼吸困難、腹部腺腫、 腹水、 心臓病肋膜や膀胱の激痛、脾臓病、痔などに効果がある。 C点眼剤として用いれば化膿眼によく、また、うがいに用いてもよい。 D甘草や桂皮、レモンなど10種以上を混合したものは、熱病患者の頭部に塗れば有効で、 この塗り薬は頭痛や失神、嘔吐、しゃっくり、震えなどの熱病患者の余病も取り除く。 E出産予定二カ月前からザクロを少量の岩塩とともに食べると安産になる。」
●中国や日本の古文書にも出てくるザクロ 「昔の中国医薬書には、ザクロが、その花や葉、果実、根のすべてにおいて、 さまざまな疾病に幅広く利用されていることが記載されており、いかにザクロが 有効で貴重な植物であったかがうかがえます。‥‥中国の医薬学におけるザクロ の有用性は日本にも古くから紹介されています。ザクロ自体は平安時代にはすでに 中国から薬用目的で入ってきていたようで、その効用について書き綴った古文書も 多く残されています。たとえば、『日用本草』(『食物本草』)『本草蒙筌』 『本草綱目抜粋』などです。」
「ザクロは人類の文明とともに生きてきた果樹であり、その貴さはさまざまな古 文書に記され、 史跡にも刻まれています。中でも旧約聖書には、ひんぱんにザクロ が登場します。‥‥ アダムとイウが楽園エデンの園を追われる原因となった「禁断の木ノ実」は、『創世記』に よると 「善悪を知る木」「命の木」「知恵の木」といわれているだけで、特定されてはいません。 ただし、エデンの園には、リンゴ、ブドウ、ザクロ、ナツメヤシ、イチジクが栽培されていたこと は確かです。ザクロはリンゴと共に、多産・子孫繁栄・男女の愛の象徴とされ「知識の木」とも いわれています。」「大祭司が聖所に入って主の前に出るとき、エポデといわれる祭服の下に青色 の服を着ることが 決められています。この青色の服の裾のまわりには、青・紫・緋色のより糸で作った ザクロと 金の鈴が、交互に並べられます(『出エジプト記」)。金の鈴の音は、主から死罪を受けない よう鳴らすものです。つまりザクロは、災いをさける果実とされていたことになります。」 「モーゼが、主に命じられてイスラエル人たちをカナンの地に導くとき、エシュコルの谷でザクロ、 イチジク、ブドウを摘みとり安らぎを得ます。ところが、ツィンに着いたときには、皆がその 荒れ果てた荒野を嘆き『汝ら、なんぞ我らをエジプトより上らしめてこの悪しき所に導きいり しや。 ここは種を播くべきところもなく、イヂシグもなく、ブドウもなく、ザクロもなく、 また飲むべき 水も無し』とモーゼと言い争ったとあります(『民数記』)。」 また、主エホバが人々に与えようとする美地(良い土地)には、「水の流れあり、泉あり、 瀦り水ある地。小麦、大麦、ブドウ、イチジク、ザクロある地。オリーブ油および蜜ある地」 とされています(『申明記』)。 さらに『ハガイ書』には、 「今後のことを考えなさい。 種はまだ穀物倉にあるだろうか。ブドウの木、イヂジクの木、ザクロの木、 オリーブの木は まだ実を結ばないだろうか」とあります。 このように民が住むための〃良い土地〃 の条件のひとつとして、ザクロが育つことを挙げてい ます。それほどザクロは命を支える重要な食べ物 だったのです。」
豊穣のシンボルであるザクロは、王家や一家一族の繁栄のシンボルともなっていきました。 「イスラエルのソロモン王(紀元前971〜932)は、13年という歳月を費やし、レバノン の森に壮大な宮殿を建て、権力を誇示しました。宮殿の中で最も大きく目立つ二本の柱には、 その頂に200個の青銅製のザクロの実が、段をなして並びかざられていました(『列王記』 『歴代記』)。古代、ザクロが子孫繁栄の象徴となったのは種子が多いからでした。‥‥ 現在 の研究で、ザクロの実には女性ホルモンが多量に含まれていることがわかりました。 これは 偶然の一致なのでしょうか。不思議としかいいようがありません。」 またそのほか、いろいろな場面、書物、聖典にもザクロはシンボルとして登場します。 「紀元前14世紀のエジプトのツタンカーメン王の墓の埋葬品にも、豊穣と多産の象徴として、 ザクロをモチーフにしたデザインが数多く使われていました。古代ギリシャの詩人ホメロス (紀元前9世紀)の作品である『オデュッセイア』の中でも、ザクロは「天国の楽園の樹」とう たわれています。ホメロスは吟遊詩人として、ギリシャ諸国を遍歴したと伝えられています。 当時ギリシャ人は、アフロディーテ(愛の女神)がこの果実をギリシャにもたらしたと考えてい ました。ザクロを豊穣の象徴と見ていたことがうかがえます。」 「イスラム教の経典「コーラン」にも、ザクロはイチジクと同様にしばしば登場します。 偉大な神アッラーは、人々に神の力を示すため、多くの効能を一つの実に集約させました。 その象徴として、結実したザクロが与えられたといいます。また、コーランでは、ザクロを 悟りの シンボルとしています。悟りを拓いた人の偉大な象徴であると定義しているのです。」
●ギリシャ神話オウィディウスの「転身物語」で、決定的な役割を演じるザクロ「ユピテル (ゼウス) とケレス(豊穣の女神)の娘であるプロセルピナに一目惚れした冥界の王プルトは 彼女を強引に冥界 へ連れていきました。これを知った母ケレスは父ユピテルに、娘を地 上に呼び戻し、誘拐した プルトを婿として認めてくれるよう頼みます。ユピテルはこの 頼みを聞き入れ「パルカエの掟、 すなわち、プロセルピナが冥界の食物にまだ触れてい ないなら、呼び戻してやろう」といいます。 しかし、若いプロセルピナはすでに断食の掟 を破り、手入れのゆきとどいた美しい園を散歩している ときに、たわわに実ったザクロの 実をもぎとって食べていたのでした。そのため、彼女は地上に 完全に戻ることができず、 地上と地下で半々に暮らし、「冥界の女王」と「大地と豊穣の女王」 になりました。‥‥ この 神話は「穀物の種子が地中にまかれ、芽を出し実を結ぶ」という事実の反映でしょう。また、 プロセルピナがザクロの実を食べたということは、プルトの子を身ごもったことをあらわ しています。 ここでもザクロは、愛の交わりと妊娠の象徴とされています。 「種子自体は死んでも、そこから 新しい芽がふく」というこのギリシャ神話を、キリスト 教では死と復活の教義に転用しています。 つまりザクロは、再生と不死のシンボルとさ れているのです。」 ●ローマ神話 ジユノーとザクロ 「ローマ神話でもザクロは豊穣、多産の象徴とされています。 最高の女神ジュノー (ジュピター、ギリシャ神話ではゼウスの妻)は、婚姻と財産の女神であり、 女性と結婚生 活者の保護者でもあります。そんな彼女の好物はザクロでした。」
「中国にもザクロにまつわる伝説は多くあり、今でも最高の果実とされています。ザクロの木 を鬼門の方角に植えて、魔除けとする風習も残っているようです。 八月の十五夜の中秋名月祭には、ザクロの実を供えて月を祭ります。重陽(旧暦九月九日) の節句には、小麦粉、またはもち米でつくった饅頭のようなものにザクロの種、粟の実、銀杏、 松の実をちりばめ、贈り物の上に載せました。この風習は宋の時代の『張俊供進御筵食単』 に記載されています。」 「中国でも、ザクロは種子を多く持っていることから子育ての信仰につながっています。 そして、子孫 繁栄の象徴として、ザクロは蓮の実とともに結婚式の祝宴のテーブルに飾ら れます。このように、ザクロは節句や新婚のお祝いに欠かせない縁起物とされています。」 「ザクロをたたえた呼び方はいくつもあります。道教では人の体内に三つの悪い虫がいると いわれ、ザクロはこれを制してくれるので、三尸酒と呼ばれました。広東地方では、色・ 香り・味のよさ、すべ てが備わっているということで「女人狗肉」と称しています。」 「中国では果皮を漢方薬として使い、実は生で食べたり、酢や酒の材料に使用し、樹皮は果 皮とともに白髪染に使います。」
●故郷オリエントから全世界へ伝えられたザクロ ●「ザクロの原産地はオリエント一帯、すなわちイラン(ペルシャ)、アフガニスタン あたりの小アジアです。イラン周辺のザクロ種は、イヂジクやブドウと同じように、 有史以前から栽培されていた果樹であり、珍重されていました。原産国イランでは、 現在でも、全土いたるところでザクロの木が見られます。樹齢200年でも実を結 ぶザクロ園は、大切な財産として代々引き継がれています。」 ●「果実の姿がまるで冠をかぶったように見えるザクロは、その効果の偉大さをたたえられ、 『果実の王様』と呼ばれ、多くのイラン人に愛されています。実を食べることはもちろん、 ジュースや、食前酒としてザクロ酒を飲んだり、焼いた羊肉にかけるタレにしたり、毎日 の食生活に欠かせない食物として重宝されています。また、ザクロは食べ物としてだけでなく、 伝統ある高貴な果実、聖なる植物として珍重されています。ほとんどのペルシャじゅうたんに はザクロのつぼみや果実がデザインのモチーフとして使用されています。おそらくペルシャ の人々は、神秘的ともいえるザクロの紅い色を、生命の源「血液」に通じるものとして崇拝 していたのかもしれません。」 ●「イスラム教徒の移動により、ザクロの栽培地域も広がっていきました。イスラエル、 ギリシャ、エジプト、シリアなどのオリエント地方やイタリア、スペインなどの地中海沿 岸の南欧、北アフリカ地方などで果樹として栽培されるようになりました。その後、新大陸 発見時代を迎え、中南米、メキシコへ渡り、さらに北アメリカへと広がっていきました。 このように世界中に広がったザクロは、各地でその風土や地理的条件、さらには歴史的、 宗教的背景によりさまざまな変化をとげました。たとえば、スペインの国花はザクロの花です。 アラブ民族の侵略がもたらした結果の象徴といえるでしょう。」 ●「中国では、華北・華中地方で果樹や花木として栽培されています。果実の大きいものは、 大果品種と呼ばれ、一個の重量が500〜700グラムもあります。有名大果品種には、 水晶石榴、剛石榴、大紅石榴などがあります。」 ●「アフガニスタンには、種皮の内部が木質化したタネナシザクロがあります。また、インド 洋のソコトラ島には、別種の自生ザクロがあります。なぜこの土地に自生しているのか、 はっきりしたことはわかりません。」 ●「アメリカ大陸でも、合衆国のフロリダ、ジョージア、ルイジアナ、カリフォルニアなどのほか、 南米のチリにいたる温暖な地域で広く栽培されています。おそらく宣教師の布教活動とともに、 スペインを経てメキシコから入ってきたのでしょう。」
●ザクロの語源は? 「中国語でザクロは、チェリュウピー(北京語)、シーラオピー(広東語)と発音します。 そのほかにも、錦香嚢、海榴(海外からきたものの意、唐時代に輸入していた記録がある)、 錯石榴子、百花王、血珠、海石榴など多くの別名があります。日本では、『和名類聚抄』に よると『石榴』を『さくろ(佐久呂)』と発音します。そして、おそらく『若榴』は 『じゃくろ』と読まれたと推測できます。これが次第に訛って、『ザクロ』になったのでは ないかと思われます。」